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La Compagnie An『鳥の眼 〜Darling Darkness〜』を見てきた。


西山水木さん作の舞台を見ていつも思い出すことがある。
それは、絶望的に暗い気持ちだ。



絶望的な想像で、本当に絶望してしまうことがある。
原爆が落ちたらとか、
家族全員皆殺しになってしまったらとか、
将来年をとって職もなく知り合いもなく食べ物もなく住むところもなくなったらとか、
朝起きたら恋人が隣で冷たくなってたらとか。

あるいは、想像ではなく、実際の出来事で絶望することもある。
このまま電車に飛び込んでしまおうかとか、
明日生きていけるだろうかとか。

なにかに蓋をされるような。

息をすることも
生活することも
重要ではない
自分という存在が消えたりぷちんとつぶれたりするような
絶望。


そういったものは、
自分から死に急がなくても、
なるようになるし、なるようにしかならないということを経験で知っている。
寝たり食べたり生活したりするうちに絶望の波はいつのまにか越えている。
ただ、
波に揺られている間、
魂とは何かとか、神様はいるのかとか、幸せとは何かとか、死んだらどうなるのだろうかとか、来世や輪廻転生はあるのだろうかとか、どう生きることが正しいことか、どう生きれば幸せなのかとか、そういうことを考える。

その、考えている最中のことを、
西山水木さんの舞台を見ると、いつもすごくすごく思い出す。





交通事故で幼い息子を目の前で亡くし、夫が去り、過去に苦しむ女。
土砂災害で両親ともに生き埋めになり、ひとりだけが助かり、それゆえの姉の溺愛の重圧に苦しむ青年。
青年はその女の息子と同じ名をもっていた。
青年は女に自分と、同じ居所のなさを見る。
眠れない二人は夜のアルバイトで出会い、惹かれ合う。
愛してはいない。
ただ、それがなくては生きていけない。
一方で姉には癌に侵され、死の影が差している。
姉が死を受け入れようとしているのを、従妹であり青年の幼馴染である女が必死で説得しようとしている。。。


小屋は70人程度入るような小劇場。
役者さんが舞台でうろうろしながら、お客さんを席に座らせたり、DJに話しかけたり、発声っぽいことをしてるなと思ったらいつのまにかはじまってて、芝居がはじまってもDJに話しかけたり、幻想的だったり、現実的だったり、哲学的だったり、シリアスだったりギャグだったり、ジェストダンスと歌と芝居が入り混じり、えっ?えっ?えっ?えっ?って感じで、なんと表現していいかわからない芝居だったけど、

終わったあとのポストトークで座長の明樹由佳さんが
「難しくって、あっちこっち話がいきなり入って、びっくりしたと思うんですけど、西山の中ではひとつなんですよ」
とおっしゃってて、そのとおり、ひとつのものだと感じた。


ああ、これは水木さんが見ている目線で、水木さんの考えてることだ、と感じていた。
座長の明樹由佳さんと、演出の長谷基弘さんのポストトークだったんだけど、「西山さんの臓器」と表現していて、その表現はぴったりだと思った。

明樹さん「西山は自分が書いている本人ということもあってよくわかってるから、とにかく細かく細かく細かく細かくこうしてくれという指導をするタイプで、納得してやっているからいいし、できるものもいいんだけど、長谷さんのやり方もおもしろかった。
長谷さんは心から台詞が出てこないと嘘になるからって、とにかく繰り返し繰り返しやって、ぐちゃぐちゃになるまでやって。そうしてると自然にこうしたいとかこうしようとか出てくるんですよね」

長谷さん「西山さんは内臓で書く人だから。西山さんのモツ(笑) 見ていただいたとおり、女性っぽい脚本ですけど、脚本を読んでみてこうしようとかああしようとか一応思ったけど、僕は女じゃないし、西山さんにはなれない。でもすべての人が西山さんの一部なんですよ。西山さんの臓器なんです。じゃあ、もう、できてなくてもとにかくやってみようって。モツなんだから頭で解釈してもしょうがない。身体の中にその内臓を入れてしまおうと。そうすれば自然と西山さんの言葉になるから」

そう。
見てる最中、これは水木さんが見ている目線で、水木さんの考えてることだ、と感じた。
今、水木さんの臓器で物事を感じてるんだって。




つーか、思い出してたのかもしんない。
水木さんが考えたことかもしれないし、過去にわたしが思ったことかもしれない。





フライヤーに、西山さんがこんなことを書いていた。
 何度も言うけれども、私は全く神や魂を信じていない。信じていないけれど、想像する。罰があたったんだと反省したり、護られているなと心強かったりする。つもりになる。
 人は死んでどこに行くのか?どこにも行かない。ただいなくなるだけ。命はむごい。1から突然0になる。お墓のなかにもいかないけど、風にも雨にも星にもならない。しかし、美しい景色を見たり、素晴らしい芸術に触れると、懐かしい人を思い出して胸がいっぱいになる。声さえ聞こえる。


考えれば考えるほど、神や魂はないと思う。
考えれば考えるほど、神や魂はあると思う。

わたしもそう思ったことがある。
矛盾しているのにどちらも正しく感じる。






昔、大学時代にPrologというプログラミング言語を一般教養の講義で習った。
スカーレット・ピンパーネルをPrologで表現するとこんなかんじ。
プログラムする。っていうか、定義してるだけだけど...
male( パーシー ).
male( ショーヴラン ).
female( マルグリット ).
like( パーシー, マルグリット ).

事実評価命令を行ってプログラムを動かしてみる...
?- like( パーシー, マルグリット ).
YES
?- like( パーシー, ショーヴラン ).
NO

用語を定義する。
用語と用語の関係を定義することで、「事実」が発生する。

わたしは、C言語やBASICに比べて、すごく人間っぽいプログラミング言語だと思った。
というか、普段自分が頭の中で考えていることそのものじゃないかと思った。
用語を無限に定義して、関係を無限に定義すれば人間そのものじゃないかと思った。

「先生、これはすごく人っぽい言語ですね」
「そうでしょう。僕もそう思います。
 人間が考えていることなんて、所詮この程度なんじゃないかって。
 考えてるって思ってるだけで、たいしたことしてないんですよ、きっと」

講義はおもしろくきいた。
けれど、その夜布団の中で考えた。

人が考えるというのはどういうことだろう?
コンピュータは考えない。0と1とその関係を評価しているだけだ。
それは考えているといえることだろうか?
決められていることをただ発生させているだけじゃないか?

頭の中で考えていることは、Prologと同じだ。
言葉を思い出す。
それとこれとの関係を思い出す。
関係によって事実が発生する。
それに基づいて次のプログラムが動く。
誰かが新しい用語を定義する。
それによって関係が評価され新しい事実が産まれる。
発生した事実がまた別のプログラムを動かす。
そのプログラムは自分以外の誰かのプログラムかもしれない。

そう思うと、人間というものが、
意思を持った存在ではなく、
実は神様が定義し関係付けたものが、
無限のドミノ倒しのように決められた事実を発生させているだけのように感じた。

なにがあるというわけでもないけど、
自分自身も、他人も、世界全体が無機質なものに感じて
恐ろしかった。




これは一例だ。

考えるとはどういうことなのか、
魂とはなんなのか、
死んだらどうなるのか、
無とは、有とはなんなのか、
幸せとはなんなのか、
どう生きるべきなのか、
ことあるごとに考える。

時に無機質なようにも感じる。


けれども、この、感じている心とやらは、魂がないのなら、じゃあ、なんなのだ。

素晴らしいものを見たときの、千切れそうな興奮はなんだ。

芝居の中で、
「苦しんでいる姿を見ていられなかった。
 この人のためにできることならなんでもしてあげたいと思った。
 わたしにあげられるものならなんでもあげたいと思った」
というシーンがあった。

大切な人が苦しんでいる姿を見たときの、あの、狂おしい感情はなんだ。焦燥、絶望、むなしさ、悲しみ、かきむしりたくなるあの心の動きはどこで、なにが起きている? なんと呼べばいい?




魂はある。
魂はない。

喜びというものはない。
じゃあ今この肉体に発生した事実をなんと呼べばいい?

事実は
楽観的に受け止めて許されるものなのか、
真摯に受け入れるべきなのか。

事実は
逃げられるものなのか。
逃げられないものなのか。

この魂に終わりはあるのか。
終わりはないのか。

わたしというものは
存在しているのか。
存在していないのか。





「ハッピーエンド?
 いつが終わりだっていうの?
 死んだら終わりだっていうの?
 そんなもの、誰が信じられるの?
 そんなことをえらそうにいうあんたは何様なの?」

いるとしたら神様だ。
神様はいない。
でも、いると思っているから問いかける。
思っているのは自分かもしれない。自分が自分の神なのかもしれない。
でも、神はいる。世界を書いた神が。

すべてのものに等しく、
無から生まれ出で、
重力を影響させ、
酸化させ朽ちさせるよう、
この世を書き記した神を見る。



わたしはただの「発生した事実の一つ」かもしれない。
「1+1は2」の2かもしれない。
1+1はいつでも2だ。
いつでも2になるから、2はいらない。


でも、この感情はなんなのだ。
わたしとはいったいどこにあるのだ。
なんのために?どこに?なにがおきている?
わたしとはなんだろう。
苦しみは、
悲しみは、
喜びは、
楽しさは、
なんのためにある?
未来はなんのために迎える?
なぜ人は生きる?

どうしようもない思いを抱え、
どうしようもなく生きる。

なるようになるし、
なるようにしかならない。






思いは繰り返す。
何度も何度も。
波に揺られるように、苦しみと悟りの境を漂う。





ただ、
なにが真実であろうとも、
今のわたしにとっては、いつも、



人の想いは、奇跡のような存在で、美しく、魅力的だ。



網に絡め取られたひばりは、死を覚悟して一度はすがすがしいまでの境地にたった。
しかし、奇跡的に助かって、大空に飛び立った。
ひばりは生きてまた苦しむだろう。
けれども、ラストシーンのひばりが飛ぶ姿は、美しかったです。



日記長くてすんません、以下拍手レスです。

本日誕生日だったので、自主誕生日休暇をとりました。いぇい!o(> <)o


毎年ちょっと贅沢するのですけど、今年は帝国ホテルにお泊りでした。

うーん、、、贅沢。
クラシカルホテルはいくつか泊まったけれど、地味に最高でした。
成金っぽい富士屋ホテルとは違う雰囲気(笑)(←いや、これはこれで好き)
お得な感じはしない。
最近のホテルはいろいろアピールポイントがあるけど、そういうのはない。
備品も普通(というか、古い分不便な部分も多い)。
華美な装飾もない。
ただ、すごくすごくすごーく快適。
なんつーか、外泊するとこっていうより、金持ちが長期滞在するところって感じ。
普通のものが恐ろしく快適にある。
なにがいいって、まくらとベッドとソファですわ。
ごろごろしてるだけで気持ちよすぎて、娯楽がなにもいらない(笑)
接客もさすが。サービスとして愛想を振りまく感じではなく、用があれば声をかけて当然という気分になれる素敵な接客でした。ナチュラルに「そこのあなた、ちょっと○○してくれるかしら」と頼みやすいというか。いや、そんな言い方はしませんけど。携帯の充電器を持ってきてくれるように頼んだときの電話の応対とか、トレイの上にのせて片手でもってびしっと立ってるホテルマンは、ちょっときゅんとした。イギリス貴族になった気分。

設備が全体的にでかくて、外人仕様だなーと感じた。
フランク・ロイド・ライト建築の旧帝国ホテルを明治村で見たとき、天井低めでおどろいたんだよなぁ。外国人にとって、あれは窮屈じゃなかったんだろうか? それにしてもぜんぜん違うなぁ。改築したとき、あまりにも変更ありすぎてさびしくはならなかっただろうかと思うライトファン。ちょこちょこライトっぽさは残っているが…。でも、旧帝国ホテルは素晴らしすぎて興奮して落ち着かなかったから(写真とりまくった)、ホテルとしてはこのくらいが落ち着くといえば落ち着く(笑) 使いふるされた感じの地味で高級な調度品。

夜はBSで『アニー』を見ながらごろごろ。
MGMらしいミュージカルだなぁと思いながらみていたのですが。。。
アニーの両親が見つかって(わかりやすく偽者なんだけど)、アニーが「(ウォーバックスさんを)本当の父親のように思えるときがあった」と歌い、ウォーバックスさんが「(アニーを)本当の娘と思えるときがあった」というしんみりしたシーンで感動した直後に、アニーを迎えに来たのが賞金目当ての偽者だというのがわかるシーンで、
「わたしたち、アニーの友達です」とアニーの危機を伝えに来た孤児院友達。
「アニーならもういない。両親がつれて帰ったよ」
「あの人たち、偽者よ!」
ウォーバックスさん、なんというかと思いきや、
「びっくりした!!!」
ええええ!(爆笑)
その驚きぷりったるや、パーシーがスカーレット・ピンパーネルだとわかったときのグラパン(笑)
しかも、ウォーバックスさんたら、事情も聞かないでいきなりあちこちに電話して、
「大変だ!アニーが誘拐された!FBI、警察、軍隊を出動させろ!!!」
ええええ。
最後のほうかなりB級映画だった(笑)



ぐっすり眠って、朝食は皇居の見えるラウンジでアフタヌーンティー(なんか間違ってる)
そして…うめーーーーーー…(涙)
これまたクラシカルな感じの一品一品だけどうまー。
特に、紅茶とサーモンサンド。スモークサーモンうまー。
紅茶もうまい。単品で頼んだら1800円もするけど。最初に一杯淹れて持ってきてくれて、それがちょうどなくなる頃に、おかわりのティーポットとホットウォータージャグを持ってきてくれたのも素敵。イチゴのショートケーキもうまかった。前日パティスリーPeltier(最近のわしの中で一番のお気に入りのケーキ屋さん)のショートケーキも食ってて、そっちは華やかなショートケーキだったんだけど、帝国はクリームが控えめな楚々としたショートケーキでした。
新○輪プリ○スホテルのアフタヌーンティーも行ったことあって、同じ値段だったけど、帝国ホテルのほうが断然うまいっす。つーか、新○輪プリ○スホテルが駄目すぎたんだが。


ホテルに荷物を預けて劇団新感線ゲキシネの『メタル・マクベス』を映画館で観劇。好みで言ったら『朧の森に棲む鬼』のほうが好みだった。が、これはこれでよかった。

へー、マクベスってこんな話だったのか。。。
シェイクスピアは『リア王』『ロミオとジュリエット』『ハムレット』『ベニスの商人』は読んだことあったけど、マクベスははじめてでした。
重かったなぁ。勧善懲悪なんだけれど、もともとマクベスは悪い人じゃないし、マクベスの妻も根っから悪い人ではない。それが罪悪感から自ら自滅していくのをみるのは、自業自得とはいえ、しんどかった。すごくおもしろかったけど、見終わってからぐったりした。家に帰ってからお昼寝したくらい(笑)
いい目をまったく見ていないんだものな…。松たか子が捨て身で好演してた。悪女だけど、眠れなくなったり、そのことについてマクベスに詫びたりしてて憎めない。むしろ、哀れ。ドラマでしか見たことなかったけど、こんなお芝居する人だったのか。コミカルな役からすごみのあるところまでこなし、歌もうまくて、さすが。

それにしても、内野聖陽さんて、マッチョだ。。。
もうちょっと線の細い人かと思ってた。
宝塚にないもんを見た気分(笑)
あと、お姫様だっこもいっぱいみた(笑)
まじチューもいっぱいみた(笑)
北村有起哉さんうまいなぁ。


いろんな人にお祝いしてもらった。
生きててよかったなとしみじみ思う。
明日からも、生きていこう。


あ、写真集の表紙が出てた。ひなたす、ありがとうー。まねして張ってみる。でかー。
安蘭けいStage History 夢への軌跡安蘭けいStage History 夢への軌跡
(2008/09/26)
不明

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あと、スカステのシークレットページの予告とうこさん、かわゆすですなぁー。



9/16 20:07 に拍手をいただいたお客様>
…どい茶…!
…行きたい…!
…クーポーさん…!!!
…すごく、めちゃくちゃ行きたいですが…
たぶん、アカシ茶とかぶっているのです…(涙)
予定が合えば、すごくすごくすごくすごく行きたかったのですが。。。
声かけていただいてありがとうございます。

『ハイブリッド渾沌』さんも無事に千秋楽を迎えたので、脚本・演出の薫ちゃんとごはんをたべに言ってきた。

私から薫ちゃんには感想を話し、薫ちゃんからはいろいろと裏話を聞いた。



今回なにが大変だった?と聞いたら、
「まとめるのが大変だった」とのこと。

「客にどう見せたいか」から入る人と、「どんな気持ちで演じればよいか」から入る人。
客席に向かって芝居をする人と、共演者にむかって芝居をする人。
抽象的な部分をどう解釈するかも人それぞれ。

「それぞれの解釈はどうなのか全員に言ってもらって、お互い否定せずに取り入れるようにお願いしたらだんだんまとまってきた。最後の群唱のところで意識が一致してから、急速にまとまってきた」だそうだ。ふむふむ。

通し稽古で15分押したと聞いたので、どこをカットしたのか聞いたら「なんにもやっていない。もう一回やったら自然と巻けた。気持ちを作ったあとで台詞をしゃべると間が長すぎるみたい。気持ちを作りながら台詞をしゃべるくらいの気持ちでやるとちょうどいい間になるみたい」。
「繰り返したほうが演じ方が変わってしまう部分もあるから、通し稽古はほとんどやってない。最後のほうは、ラストシーンだけひたすらやってもらった」

最後のシーンは、薫ちゃんの予定では「ああいう感じ」ではなかったらしい。
「もっとなんだかわからないような終わり方のほうがハイブリッドっぽい。でも、実際に演じてもらったらこの人が演じるなら、こういうさっぱりした終わり方になるのが自然だな」ということでそうなったらしい。

相変わらず、人任せなような、確固としたポリシーがあるような、不思議な作り方。




公演の感想について。


友達の金子薫の劇団『ハイブリッド渾沌』さんのお手伝いをしてきた。
ついでに観劇してきた。
手伝いに行ったのか、観劇に行ったのかわかりません(苦笑)
差し入れのおかしいっぱいもらってきてしまった。あははは(苦笑)




薫ちゃんセンターからダンスシーンだったんだけど、ダンス中も薫ちゃんがセンターでライトあたってたから、うわ、トップスター!と妙な受け方をしてしまった。

……ここはタカラヅカではありません……。(切り替え中)

話のほうは最初からドロドロ。
こんな舞台を作るくせに、薫ちゃんって、なぜブログがあんなノリなのか不明。。。
いわくありげな姉と弟の会話のあと、盗んだ下着でハニーの香り成分を補充するストーカーとか、ギター弾けないのにミュージシャンを名乗るナルシストとか、不倫して相手が結婚してることに「許せない」と呪いをかける女とか、なんだかわかんないけど北の海に行きたい態度のでかい高飛車な女とか、キューピー人形をしょってる隣人とか、係わり合いになりたくないような類の人が大量に出てきて、キモい…(役者のみなさん、すみません…)。何がおきてるかわけわかんない…。

どうなるんだ?と見ていたら、、、いつの間にか引き込まれて見入ってた。

最後のほうは、謎だったことがはっきりしてきて、
ああ、そういう話だったのか!と感心しつつ、
主人公が感じているだろう引き裂かれるような感情に引きずられた。

後悔すること、
直視したくない現実、
なのに何度思い返してもそうするしかなかったようなこと。
つらい。
つらい。。
つらい。。。
良くても、悲しい。
だめだろうがよかろうが、
他の人にどう思われようが、
どんな解決方法が見えていようが、
それしかないとわかっていようが、
叫ばずにいられないような、悲しみ。

他人ごとなんだけど、それ自体は自分に起こりそうもないことだけど、
違う形で、その感情にさらわれる出来事が、
自分におきても不思議ではないことを知っている。

今までの公演の中では、一番好きだな。ちょこちょこ「これはこういうことだったのかな?」と思う部分があって、もう一回みたいなという気持ちも今までの公演の中で一番あった。受付してたときに音声聞いて確認できました。満足。うーん、ストーリー的にもおもしろかった。



「姉」役の白石さんが、今までとぜんぜん違う感じで、新鮮でした。
っていうか、あんなに憔悴しきった白石さんは初めてみた…。

大丈夫ですか?って聞いたら、「いつもは芝居の夢は見ないけど、今回だけはさすがに見る。風呂で酒を頭からかぶってリセットしないと今回はだめだ」って言ってた。
そうだろうなぁ…。
今回の「姉」って、つらいことがおきるので、姉として居ること自体が大変そうなんだけど、なにより今回の「姉」は、「影」以外の全員の「念」が向かっているような立ち位置なのです。芝居とは言え、本気で芝居して出てる変な念を一身に受けて芝居し続けるのは、ものすごく大変だろうな。中心にいる人って大変だな、、、と思った。

それにしても、稽古場からおじゃましてたらよかった。普段どういう人がどういう役するのか知ってたほうが、大変さが想像できるから、いろいろやってあげなきゃという気分になる。前回もそう思ったはずなのに、忘れてた。次こそはそうしよう。


--


いつも読んでるメルマガで、谷川俊太郎さんのインタビューが載ってた。
引用の引用になっちゃうけど、メモしておく。

月刊PLAYBOY9月号 P.63 
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 谷川:
(省略)相田みつをさんの詩の人気ってすごくて、美術館みたい
 なものもできてるけれど、こういう人生訓的なものを詩の世界
 に求める傾向は日本人に昔からありましたね。

 われわれはそれとは違う線でずっと来てるから(笑)、・・(省略)

 詩というのはメッセージではないんです。

 今、学校教育で必ず「この詩のメッセージは何ですか?」とな
 るんですけど、メッセージなら正確で簡潔な散文で言えばいい
 んであって、詩は、メッセージを伝えるものではなくて、言語
 ってものを1つの確固としたオブジェのように提出するのがも
 ともとの働きだと思うんですよね。

 散文に慣れている読者は、まず意味をどうにかして理解しよう
 としてしまうんです。

 だから、僕はそれに対して、意味を理解することも必要かもし
 れないけど、おいしい食べ物のように味わってほしいってよく
 言うんですけどね。

 でも、味というのは学校教育の中で点数がつけられないんです。
 理解は点数がつけられるけど。
------------------------------------------------------------

おおお、谷川さん!
なんかわからんけど頭を下げたい気分になった。



理解する、以外のこととは、なんだろうか?
言葉というのは、なんだろうか?

わしはインストラクタです。
よく思うのは、テキストがあるのになんでインストラクタがいるのだろうってことです。
素晴らしいテキストがあっても、書いてあることをそのまま読むだけでも、インストラクタはいないよりいたほうがいい。説明の日本語が変でも、適切なタイミングで音として耳から入れるだけでも、文字とは違う意味があるらしい。わしがやってるのはなんでしょうか。理解を手助けする仕事ではありますが。
芝居にしろ、ダンスにしろ、歌にしろ、営業にしろ、体や言葉をつかってなにかを表すということは、「言いたいことを伝える」以外にいったいどういう役割があるのだろう?

大人計画の『女教師は二度抱かれた』を見てきた。


小劇場界の風雲児と呼ばれる若手演出家・天久六郎(市川染五郎)は、今、歌舞伎界の異端児と注目されている女形・滝川栗乃介(阿部サダヲ)と組み、今が大舞台に売って出れるかどうかの瀬戸際だった。
しかし、計画は最初から不穏な雲行きが立ち込めていた。滝川の車が最初の打ち合わせに向かう途中に老人・鉱物(浅野和之)を撥ねてきたのだ。このチャンスを逃したくない天久たちは、「大事な頃であるのはわかるから黙っていてあげましょう」という小劇団の社長だった老人の言葉に甘え、事故をもみ消してしまう。
事故の目撃者が運悪く死んでしまい、事故が露見する不安と死体の処分に悩みつつも、高校時代の演劇部仲間のと書いて演劇賞を受賞した「女教師は二度抱かれた」を再演しようとする天久。しかし、「うちの女優に見学をさせてくれ」と鉱物が連れてきた女優は、天久の高校時代の演劇部の顧問・山岸諒子(大竹しのぶ)だった。
実はその山岸こそ「女教師は二度抱かれた」のモデルだった。天久には、若気の至りで山岸と関係を持ち、縁談を破談にしたうえに、「成功したらかならず先生を女優として使う」という約束を果たしていないという過去があった…。




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